デジタルARENAは自分が媚びへつらっている、その対象すらよくわかっていない



○ブログで自滅する人々(第4回)〜「祭って」いるのは誰なのか / デジタルARENA
http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051110/114204/index2.shtml
問題を指摘しているわりに全体として容認の方向だし、文章に無気力な感じがじゃぶじゃぶ溢れていてこちらまでたいへん脱力させられる。


で、脱力しつつ一部引用する。

もう一度書いておくが、2ちゃんねらーは「血に飢えた無差別テロ集団」などではない。

現在は本格的に「祭り」化されるまでの間に、批判の対象となる言動はそれなりにしっかりと吟味される傾向が見て取れる。

実際に「祭り」化したとしても、その中では微妙なバランス感覚が保たれていることについても言及しておこう。

話を要約すると

  • 無差別ではなく、ターゲットを選んでいる
  • 歯止めは効いている

ということらしい。
「行動の種類」じゃなくて「行動そのもの」が批判されてるんだから、そのあたりでの話は的はずれ。「木を切ること」を問題とされたのに、「木はそっと切ってますから」と説明している。「無差別テロ」と批判されたグループが上記の言い訳をして「世間」が納得するという例を見たことがあるのだろうか。

たしかに現状、祭られた対象が「応報」を超えて大きなダメージを受けてしまうことも多い。

と書いてるのに、「ターゲットさえ選べばやってもいい」と言うのだろうか。匿名の集団がターゲットを選ぶ正当性ってどこにあるんだろう。そんなに正しいとしたら、なぜ匿名なのだろう。

なぜ勝手に「世間」などと認定し、持ち上げるのか


 そもそも、「祭り」の是非は単純に語れるものではない。そこに参加している人々の心根がひとりひとり異なるからだ。

もしかして動機が行為を正当化するって話だろうか。「動機がなんであれ、やっているのはみっともないこと」だと思うんだけど。何度か書いているけど、「問題があるブログ」判定の作業を集団のなかに預けてしまった時点で、個人の思考と倫理を放棄してしまっているわけで、そこに「さまざまな個人」など存在しない。そんな特定の個人でもなんでもない、だれにもわからないはずの「心根」を持ち出す意味はなんだろう? そんなあやふやなものを「世間」と呼ぶ意味はなんだろう?


集団の一部であれ、抑制が効いていなければ結果として集団全体がバカ認定されるというのはごく当たり前の話で、「いろんなひとがいる」論は「一部のひと」論と同じ。このシリーズにあった「2ちゃんねらーとはなにか」などは話の全体を濁らせた有害なだけのまったく無意味な話であり、祭について語るのなら「祭に参加してる2ちゃんねらー」限定で充分。
「祭に参加してる2ちゃんねらー」もふつうのいろんな職業についている「世間」ということになるのだろうか。
カルト宗教にだって同じ言い訳があるわけです。
――みんなふつうに職業についてるふつうのひとたちです
オウムにもいろんな信者がいましたね。そういうとき、信者に対して「世間」はなんと言ったか。
――問題起こすつもりがないなら、オウムやめて出ていけばいいじゃん

奇妙な見解


しかし「祭り」の参加者の多くは合法的な手法による制裁を前提に行動しているし、そこで展開されている書き込みも、決して「世間」の「本音」と大きく乖離したものではないと思えるものが大半を占めるというのが筆者の見解だ。

こんな話はどうとでも言える、という例として単語を置き換えてみる。

しかし「祭り」の参加者の多くは合法的な手法による制裁を前提に行動しているし、そこで展開されている書き込みも、決して「筆者」の「世間」と大きく乖離したものではないと思えるものが大半を占めるというのが筆者の本音だ。

この書き手は「世間を構成するひとびとが多様である」はずなのに「世間の本音」をたやすく想定できてしまう、という特殊な才能の持ち主らしい。そんな才能を発揮して「祭り」には「世間の本音がある」かのように持ち上げ、どこのだれでもないなにかに向かって媚びを売る、その狙いはなんだろうか。


こういう迂闊な文章は
●煩悩是道場 - 「ブログで自滅する人」は何故書かれたか
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20051112/1131765943
こちらで「印象操作」と書かれてもしかたがないし、実際、

「祭り」を擁護し、容認する形で自分たち以外のブロガーを「売った」のである。

というデジタルARENAの罪は重い。




「ネットの世間」なんて「ネット外の世間」から見たら「一部のひと」ではないんですか?