「同調の穴」によって「批評すること」そのものが消え去るのかもしれない

こちらなどから。
音楽配信メモ クリエイターは「批評されること」そのものを問題にしているのではない
http://xtc.bz/index.php?ID=272

一般的なクリエイター、というものは存在しない

クリエイター(以下、作り手)は千差万別。
そんなの当たり前? そう。
ではなぜそれが問題に?


彼らは基本的に個人でものを作るのであり、その心理的な過程にはさまざまな要素が組み合わさっています。そういった彼らに共通するキーワードを探す試み=一般化、という作業をほどこすのはムダ(無意味な手間)が多く、またその結果得られる作り手像もまたあいまいなものになりがちです。そういったあいまいなイメージをあえて作り、それを前提にすることがこの話(批評)の進展に貢献するとも思えません。


作り手という一般化した対象を想定する場合は、実際の作り手を想定するのではなく、「消費者(以下、受け手)にとっての」作り手という対比の下に想定されなければなりません*1


なんであれ作り手が批判を受けるのは妨げられませんが、作り手がその批判から影響を受けるといえば言えるし、そうでないとも言えます。どうとでも言えるのです。なぜなら千差万別だから。作り手というものを一般化して語ることができないのだから、こういった「作り手には〜だろう」的推測を前提にした論は意味がありません。
といって具体的な一部の例をあげたとしても
「作り手Aは批判を気にして〜になったそうだ」
「へえそう。それは残念」
これで終わってしまいます。
作り手側としても、自分を一般的なクリエイターと思ってそれらの批評を受けとるひとはあまりいないでしょう。
となれば、負の部分はいったいどこに影響するのでしょうか。


つまり考えるとしたら、「受け手の側がこうむる負の部分」を考えるべきではないか。しかしそれはどういうカタチで存在するのでしょう。またそれは受け手だけの問題でしょうか。受け手にとっての作り手とはなんでしょうか。

そもそもダベリレベルと一般に言われる批評のあいだに差はあるのか

そこに線をひけるのでしょうか?
さらに言えば、明確に線が引けたとしてもその(ネット以前の)批評においては負の部分が大きくなかった、と言い得るのか。またもし線が引けないとしたら、それをシステムや場の問題にすることの意味はあるのだろうか?
これはシステム的にどうこう言う以前に、「批評には素人批評と玄人批評がある」という認識を引きずっているところに問題があるのかもしれません。つまり肩書きの問題になる。もともと批評にはなんであれピンキリがありました。しかし現実にはメディアに「乗る」ためのハードルによってピンのほうが多いはず、という前提があったのです。それが肩書きの意味でした。ハードルが下がってしまったメディア、つまりネットでは肩書きはあまり意味がありません。となると、ますます「線引き」が困難になります。


肩書きはたいした問題ではない? そうだと思います。
けれどもそれ以前に、「ダベリレベル」と「まとも」の両方のレベルがひとつの批評のなかに混在することが可能なのです。分離は不可能です。つまり文章テクニックの前に線引きは無意味です。


線引きが困難というのはつまり、批評というものはそもそもそういった「負の部分」を全体として引き受けなければならない行為であり、批評を許容するのならそういった部分も許容しなければならない、ということを意味するのではないでしょうか。批評にはそういったぐずぐずした、感覚から切り離されない言葉としてダメな部分のあるのです。ネット以前から。
そしてそれを切り離すことは困難なのだから、ちゃんと「そういうものだ」という前提で話を考えるべきでしょう。

批評は必要とされているのか

ところで。
Amazonレビューであれなんであれ、そこを読んでいるひとは批評ではなく、情報を求めているのかもしれません。「自分を納得させる情報」を。
みんなそんなにひとの感想をまともに信じているのでしょうか。自分と同調するような意見を求めている、同意を求めているだけなんじゃないか。ダベリレベルの批評(感想)とはそういうものではないか。つまりクオリティ云々ではないし、そもそも批評でもない。議論よりも相づち。

したがって、一般の批評と比べたり、クオリティを求めたりするのは意味がないのではないか、という話にまでなってきます。


同意を求めるための「同調の穴」はその機会さえあればどういったところにでも発生するものですから、「レベルが低い批判」の発生しにくい場を作ったところで、今度は「過激さはないものの、似たような意見」が集まる気味の悪い場所ができるだけ、という可能性もあります*2。それが「正の効果」を「受け手にとっての作り手」に与えるでしょうか。よく言って、せいぜい可もなく不可もなく、という気がします。


過激でバカな批評そのものは無価値かもしれませんが、それを引き金により多くの「まともな」批判が出ることはよくあることです。これらの批評は「作り手」ではなく、「受け手にとっての作り手*3」へと影響されるべきものです。なぜならそのイメージこそ、受け手が本当に所有するものだからです。
そしてそこには「クリエイターの心情」といったものは存在しません。存在するという仮定は、逆に作り手をないがしろにしかねません。存在しないと思っていれば、クリエイターを頭から否定するような発言も出てこないかもしれませんし。
届くとも知れない作り手に対するよりもまず、受け手の側に返ってくるような言葉を受け手自身が考えるべきでしょう。


そういうふうにしてネットでは批評、あるいは「受け手にとっての作り手」への語り口、というものが育っていくのではないでしょうか。

しかしもし批評よりも「同調の穴」が必要とされている

のであれば、なくなるのは「まともな」批評のほうなのかもしれません。もっとも「同調の穴」にも有益な情報、批判は存在するでしょうけど。
わたしとしてはどちらかが残るとか淘汰とかよりも、たんにいろんな意見がさらに活発に出るようになればなぁ、というふうに思いますが。


[長い]

*1:前述のように「一般的な作り手」は存在しないので、それを前提に議論するのはあまり意味がありません。

*2:「みんなになりたい」大手小町の仕組みはネットになにをもたらすのだろう

*3:「作り手のイメージ」とか「消費されるスタイルとしての作り手」とか「ブランドとしての作り手」とか、そういったものです。わたしたち受け手が語る、語りたがる「作り手」というのは勝手に作りあげたイメージにすぎません。そのイメージについての言及は結局、直接に作り手へと言及しているものではありません。