「予定線」という考え方でブログのエントリを取捨するということ

「代替可能」ということを考えると、あえてネットに書かなくてもいいだろうという場面がよくある。


たとえばこのエントリはイメージとしてまず画像が頭に浮かんだので描いたものの、それに沿った文章を考えるとたいして面白くもなさそうだったので、文章は省略したわけです。
ここでの「面白くもなさそう」というのは「似たようなことは(かなりの数の)だれかが書いている/考えているだろう」ということで、それは「べつに自分じゃなくてもいいだろう」ということでもある。


ネガティブな強い感情やコメントについても同様のことが言えて、
「べつにおれが書かなくてもだれかが書くだろ」
と思ったら書かない。




……ようにしたいものです。


このあたりはネットをたんに「記録する場所」と捉えるか、「情報を共有する場所」と捉えるかで変わってくる。どちらか一方でしか考えていないひとはたぶんあまりいない。ということは単純に考えると、ひとつの(ネット上の)テキストは

  • 記録する場所
  • 情報を共有する場所

のどちらか、あるいは両方にふさわしいものでなければならない、ということになる。なぜ「でなければならない」かというと、自分もまたそのように考えてネットという場所を使うから。


で、「書く・書かない」についてもうひとつ言えば、たとえば「共有する価値はゼロ、記録する意味は……わからない」というようなものであっても、「とりあえず書いてみる、そして先が見えるようなら記録する」というのが「正しい態度」かもしれない。わたしが書いたエントリは先が見えなかったのでボツにした。
じゃ、その「先」ってなに?
それは自分のブログのなかで先々に展開していけるかどうか(テーマなり手法なり感覚なり、さまざまな面において)、ということで、自分のなかからレールが引っ張っていけるかどうか、みたいな感覚ですね。このあたりは適当な言葉がないのでとりあえず「予定線」とでも言っておきます。


この予定線が見えるようなら、先々の自分のための蓄積となる可能性があるので、あまり面白みのない情報であってもネットに載せておく意味はある。予定線上にあるエントリなら、先々自分のモチベーションを高めるという効果もある。逆にこの予定線が見えないようであれば、手間を考えて適当に捨てるほうがいい。

まぁ要は「自分で書いたものに自分的にどれくらい興味深いと感じるのか」てことなんでしょうけど。


[言いわけ引っ張り予定線エントリ]