『CONTENT'S FUTURE』から見える、ウェブのモノ作り

献本ありがとうございます。

CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)

CONTENT'S FUTURE ポストYouTube時代のクリエイティビティ (NT2X)

本書はクリエイティブコモンズ対応*1なので、かなりの部分を引用してみました。
以下はわたしが興味をもった部分で、おもに「ウェブともの作り」についての発言を各章ごとに取り上げた*2。発言の前後についてはあえて説明は省いておく。興味があるひとは本書を手に取ることをお勧めします。


以下敬称略、基本的に引用の発言は各章のインタビューイによる。強調は引用者。

土屋敏男第2日本テレビエグゼクティブ・ディレクター)

堀江さんが言ったのは「利益がもっと出るようになりますからやりましょう」ということですね。三木谷さんが言ったのは「便利になるからやりましょう」ということ。両方とも「利」ですよね。利益とか便利の「利」を言う。(p12)

例えばテレビに関わる「放送作家」って存在自体が、ほとんど日本だけにある非常に特殊な存在ですよね。金を生んでるんだか生んでないんだかよくわからないような存在に、こんなに金を払っているところってないですよ。会議は4回に1回しか出てこないくせに、毎月けっこう持っていって、みたいな(笑)。アメリカなんて、脚本家はいるけれど日本で言う放送作家はいないみたいなんですよ。
でも実はそういう曖昧な立場の連中がいるから日本のテレビって面白くなってきた、っていうことも含めて、その辺のうやむや感みたいなことが実は面白いんだと思う。土壌だと思うんですよね。(p24)

だから目先の、というかたくさんの人を納得させる理屈だったり、これで儲かってるからとか、こうやったら儲かりますよというの*3ようにいわゆるマーケティングをベースにした企画書を書くと、そうなるんですよ。でもそうじゃない。コンテンツは、実は「人の心」というわけのわからないものを動かしてナンボだ、っていうことにもう1回戻っていかないと。本当にやせ細っていくだけだと思う。(p26)

ネットで見るときは、数十秒なり数分で細切れでも刺激の強い面白い映像をガッと見たい。逆に、ゆったりソファに座ってテレビを見るときは、そんなに濃いもの、数十秒のショートフィルムで刺激の強い映像がガーっと並んでいると、それはそれでイヤになっちゃうと思うんですよね。(P50)

草場大輔(東京MXテレビプロデューサー)

メディアとしてドミナントじゃなくなってきています。それは、テレビが本来の役割に純粋化されていく過程にあるだけだと思うんです。その意味でもネットがテレビを殺しているんじゃなくて、やっぱり今ネットがテレビを救っている。(p59)

西谷清(ソニービデオ事業本部本部長)

まぁ最終的には、世の中が求める技術が生まれれば、それが一番便利なところに収斂するっていうことは、これまでの歴史が全部証明しているんです。(p79)

長谷川裕(TBSラジオ

何かのメディアが一旦消滅しそうになるピンチに陥ったときに、今までとは違う規模になっても生き残るためには、それまでとは違う新しい価値をメディアに付加しないとダメですよね。その1つの解答が「今まで消費してるだけだったものを自分でやれるものにする」ってことだと思うんです。(p106)

椎名和夫(音楽家

1つ言えるのは、マシンを使って作業する場合って必ず主役は1人なんですよ。ところがミュージシャンが何人か集まって、アレンジャーが白紙に近い譜面を渡してやるときは、そこに共同のコラボレーションが発生する。この両者の間にはとても大きな開きがある。(p121)

クリエイティビティの話でいうと、いかに自分の中での自己満足を得られるように1人で作っていても、やっぱり4人優秀な人がいて、それらがみんなで有機的に音楽を作っているときの瞬発力には負けるんですね。バンドマジックなんかもこの類の話でしょう。だから、総論として業界のクリエィティビティが落ちてるという状況は確かにあると思います。(p121)

身も蓋もないことを言っちゃうと、4人で作ろうが1人で作ろうが売上には関係ないわけです。4人で作ったら、当然作業費として4人分かかるわけだし、しかもうるさいことを言うようなミュージシャンばっかり来るわけだから、人間的に面倒なことを処理するコストも4倍になるわけですよ(笑)。だったら、それよりは言うことを聞く1人に任せておいたほうが業界の論理としてはいいわけですよね。
ただ、コストダウンの話で言うと、打ち込みでシコシコ作るのでも、人を呼んでやるのでもそうなんだけど、何らかのジャッジをしていくときに、時間をかけて作ったものってやっぱり売れるんですよ。少なくとも、「名作」と言われたものはそういう時間をかけた作り込みの上に世に出てきてるんです。(p122)

ここらへんの「手間のかけ方」についてはウェブではほとんど議論されていないし、おそらく共同でなにかを作る場面ではまだウェブはかなり未熟といっていいのかもしれない。

そもそもレコード会社には「専属制度」というものがあったんですよ。メシから何から食わせて、その代わり権利を全部召し上げる。良くも悪くも昔はそれが機能してたんだけど、そこから始まってどんどん外に出すような方向ですね。
また昔はレコード会社にも名物プロデューサーっていうのがたくさんいて。豪傑みたいな人が。「ここで欠損出してもこっちでカバーしたからいいだろ!」みたいな。そういう人はもう今のレコード会社にはいないですから、構造的にシュリンクせざるを得ないんじゃないかと。(p126)

ネットの音楽販売関係の議論では、こういったレコード会社の「パトロン的役割」についてあまり理解されていない場面をよく見かけますが、ネットにおいてこういった役割はまだうまく機能しそうにありません。

津田大介小寺信良 対談

それらがもたらした変化は何かというと、僕はテレビが文化的なコンテンツとして「批評」の対象になったということなんじゃないかと思うんですよ。それまではテレビは「観て終わり」で、テレビ批評自体が成り立たなかったわけですが、録画して何度も観たり、友人に番組を渡せるような自主流通回路ができたことで、みんながテレビ番組をカジュアルに語れるようになった。(p155:津田)

作り手側の論理からすると、視聴者は一度この番組を見はじめたら、たぶんずーっと見てくれるから、僕たちはその感覚で矛盾が無いように作らなければならない。つまり「同じカットがもう1個あったらダメだ」ってことを、最初のうちからものすごく叩き込まれるんですよ。
(中略)
でも作り手側の意識としては、視聴者が途中で他のことをするとか周りのことまで考えてたら、もう作ってられない。その方法論は、ずっと捨てられないですね。だってそういうこと考え出すと現場も混乱するし、そこまで考えると、もはや別のマーケティング手法で番組を作らなくちゃいけない。それはそれで、コンテンツの破壊が起きるわけです。(p169:小寺)

江渡浩一郎(産業技術総合研究所

(略)本人がいくら修正しても「いや、違う」って誰かに差し戻されるところがウィキペディアの面白いところで(笑)。
事実かどうかではなくて、真実はある種のポストモダンとして形式的にしか判定され得ない。だから「俺が言ってるんだからそれは事実だ」って言っても、その編集が差し戻されてしまうわけです。これってとてもラジカルなメディアですよ。だってそれは「お前がちゃんと真実を言ってこなかったのが悪いんだ」っていう話になってしまうわけですから(笑)。(p201)

(略)そう考えると、ウィキペディアみたいな方法で作品的な力を持つようなものを作ることは、まぁ無理じゃないかという気はしています。コンテンツっていっても、いろいろあるでしょ?(p204)

それなら「創作性があるかないかを客観的に見分ける方法はあるんだろうか」みたいなことを考えたんですね。一番はじめに考えたのは、モデルの複雑さ。これで判定できるんじゃないかと。例えば接続されているモジュールの数とか、接続されるルールの複雑さとかです。(p207)

ただ、重要なこととして、創作性って謎な部分が多いくせに著作権法では明確に規定された概念ってことなんです。著作権法に書かれていることによれば、著作物とは「思想を創作的に表現したもの」ですよね。何となくわかるような気もするけど、突き詰めて考えるとよくわからない。「なんだよ、その『創作的に』っていうのは」って(笑)。(p209)

中村伊知哉(慶應義塾大学教授)

それで今年の1月に知財本部の依頼で出張して、そういったヨーロッパの国を見てきたんです。そうすると、質問が通じないんですよ。大人が何人も行って「IPでテレビ番組が伝送できるのはなぜですか?」と聞く(笑)。
そうすると「どういう意味だ?」って聞き返されるから「いや、IPマルチキャストか、シングルキャストかどっちなの?」って聞くと、「どっちかなぁ?」みたいな感じなんですよ、向こうは。
そうすると「なんでそんなこと聞くの?」って訊ねられるから「日本ではIPマルチキャストかそうじゃないかで、通信か放送か、法律上の扱いが分かれる。通信扱いか放送扱いで、著作権処理の適合も違う」ってマジメに説明したら、向こうはゲタゲタ笑ってるんです。「なんだそれ?」みたいな。「なんで技術の方式で通信か放送か分かれるの? 流れてる映像は同じじゃん」って。(p239)

日本が「クールジャパン」なんて呼ばれるようになって源は、大衆の表現力と審美眼ですよね。ほとんどの人に絵心があって、そこらへんを歩いている人に道を聞いたら地図を描いて教えてくれるっていうのは、たぶん日本人だけの大きな特徴です。(p243)

(略)ですが日本は、中間層の強さでずっとモノを作ってきたわけですよね。だから、デジタルの力がみんなに降りてきたら、中間層が強い国は絶対に勝てる。CGMって、そういう日本のためにあるような概念ですね。(p243)

松岡正剛(編集工学者)

ダブルページごとに「左右」「左右」と進んで、ページを自分の手でめくるという身体感覚と、知覚するときの知の「分量」が適切なんだと思う。(p254)

(略)ただ、ウェブのすごさってアンカーとかリンクとか、そこには見えてないものがボタン状ないしはライン状になっていて、それを指定すれば次のものを吐き出すという構造にあると僕は思っているんです。これは絶対に書籍ではできない(笑)。だとすれば、パソコン画面のフォーマットはもうちょっとシンプルになるべきなんだよね。画面上にやたらに旗を立てるのは、自縄自縛というか、ウェブが本来持っている良さを殺しちゃう危険がある。(p255)

(略)読むときはとりあえず見なくて済む。つまり、必要なときに開ければいいという構造。表とか裏とか、時空とかパースを持つとか、そういうものはウェブのほうがもともと高い可能性を持っているんです。だけど、それに気がついたウェブデザインやウェブフォーマットが、リテラシーとしてまだ発見し切れていない。(p256)

生み出されるコンテンツが、良い悪い関係なくとにかく増えて、それを享受する受け手も非常に増えているというのが今の時代ですよね。そういう状況下で、僕は、今一番足りなくなっているのは「エディター」だという問題意識を持っているんです。(p260:津田)

僕の考え方で言うと、実はコンテンツというのはエディティングモデルを交換しているのであって、メッセージを交換しているとか情報を交換しているというのは誤った考え方なんじゃないかと見ているんです。なぜならコンテンツは今、フォーマットごとに届くから。(p261)

実は編集というのは、半分は手続きなんです。面倒くさいことをわざわざやることに意味がある。コンテキストの勘がはたらくようになる。これが、編集のABCなんですね。
(中略)
すると、ある情報や知に近づくというのは、常にユーザーなり主体が、その形に対して自己編集を起こしている、っていうことなんです。(p263)

コンテンツを作る上では、頭から見てもらえるものを作らないと、コンテンツを作る力が落ちるんです。そう考えていくと、「DVDって便利だ、編集しなくて良いんだ」ってことが一般に広がることがいいことなのか、疑問が残るんです。(p266:小寺)

人間の知的な興奮とか面白さとか深まりとか、あるいは悲しみとか喜びとかっていうのは、アブダクション、つまりいろんなものが次から次に暗示を与えながら連続的にコンティニューしていく中で深まるんですよね。あるところが悲劇のクライマックスだからといって、そこだけ見ても悲劇的なクライマックスは感じないわけですよ。(266)

その「行ったり来たり」をウェブにも入れて欲しいわけ。そういうプロセスにおいては、梱包を解くとか、どーんと届いて「え? こ、こんなに買ったっけ?」って驚いたりすることが残るんだけど、ウェブではそれがなくなってしまっている。だから、それを手がかりとして本来ならば編集が始まるものが、始まりにくいんですね。(p275)

津田大介小寺信良 対談

(略)何気ないことでものすごい激高したり傷ついちゃったりするような繊細な感性を持っている人が、クリエイティブや表現に向かうと人を感動させるものを作ったりするわけですからね。スルー力が高いって、言い換えればいろいろなものに対して感受性があまり豊かじゃないとも言えるわけで、感受性に乏しい人からものすごい緻密な芸術なんか出てくるの? っていう根本的な問題はありますよね。
(p287:津田)

そういう意味ではネットイナゴの炎上問題ってすごく重要で、あれをちゃんと考えないと、クリエイターは3日で潰れますよ。だってものすごい手間かかるし、頭も使うしさ、ものすごい労力使ってコンテンツ作ってるのに、1行コメントで糞味噌に片付けられたら。(p289:小寺)

(略)もはや今の時代はコミュニケーションがコンテンツ化してるわけですから、システム設計者はコンテンツの総合プロデューサーなんです。運営側はそういう意識を持ってもらいたい。それが、クリエイターを守る意味でもコンテンツを盛り上げるためにも必要なことだと思います。(p290:津田)

そういうときに、巷にコピーがあるってことは、アーカイブだと僕は思うんですよ。(p297:小寺)

今後、ユーザーがCGM的に面白い動画コンテンツを作れるかどうかは、そういう専門職能がどれだけオープンになるのかってところも大きいと思うんです。(p304:津田)

(略)だからネットも、「イリーガルだね」って認識のままで、放置するのが正しい。空気読めないでやりすぎるやつがいたら、とっつかまえればいいわけで。(p306:小寺)


感想

ウェブ上で「コンテンツ」を扱うときに「コンテンツ」というふうに直線でざっくり切り取ってこれるように考えがちですが、既存の(ネットの外にある)コンテンツの多くは手でこねるようにして作られていて、そういった手――作り手から製作環境まで含めて――をいかにネットに持ってくるか、あたりがもう少し議論されるようになってもいい時期かもしれないなぁ、とか思いました。そのあたりに踏みこんでいかないと、いつまで経ってもネットは「既存のコンテンツを流し込むメディア」のままかもしれない。
個人をエンパワーするのか、あるいは小集団のコラボレーションをうまく機能するように手助けするのか、いずれにせよウェブやCGMにどれぐらい可能性があるのか(あるいは限界があるのか)を考える、よい手助けになる一冊でした。

*1:表示_非営利_改変禁止

*2:取り上げてない章もあります。

*3:原文ママ